トビー・ダンカンのデスザウラー 10年③
●リュカイナ氏のデスザウラー
かつて、私はリュカイナ氏のデスザウラーに、「再現」という言葉を使った。
しかし、この作品は「改造」作品、それも大改造である。
「商品状態」とは、完全に違うバランスで構成されている。商品状態のままの箇所は殆ど残っていないだろう。
勿論それは、必要最小限の改造を施した堀井氏のデスザウラーとも、大きく異なることを意味する。
それでも、このリュカイナ氏のデスザウラーは、「ゾイド・バトルストーリー2巻」に登場する、スフィウスLAB堀井氏作例「デスザウラー高機動型 トビー・ダンカン少尉機」に、最も近い作品であると断言する。
再現度は勿論のこと、その精神性も、だ。
ゆえに、今回の「10年後の感想文」では、あえて、改造箇所をピックアップしてゆくということはしない。
リュカイナ氏のこのデスザウラーに込められた精神性、ひいては「誠実さ」について述べたいと思う。
↑ リュカイナ氏 作 デスザウラー トビー・ダンカン少尉機(1.0)※1
●改造ゾイドの方向と彷徨
99年の復活ゾイド以降、星の数ほどの改造作品を見てきたように思う。
ガレージキットの原型を製作するようになった、この10年間も定期的にチェックは欠かしていない。
そもそもの基本形があるが「ゆえに」改造ゾイドの幅は広い。
自分設定で大きく変更されたもの、当時のセンスを踏まえたオリジナル…数え上げれば枚挙にいとまがない。
しかし、その中で、「ゾイド・バトルストーリー」の「空気観(世界観ではなく)」に忠実に作られているものが、かなり少ない事も感じていた。
勿論、「メカ生体ゾイド」はアニメーション展開もなく、ギミックと必要最低限のストーリー、設定を提供し、無限に遊びの幅を、ひいては想像力を喚起させる素晴らしい玩具シリーズである。
その玩具シリーズとしてのコンセプトにおいては、それらはむしろ歓迎されることであろう。
ゾイドシリーズは、30余年にわたり(!)受け手にここまでの幅を与えたのだ。
その結果、いまだ展示会が開催され、各々の設定で広げた素晴らしいゾイドワールドが展開されている。
こんなにうれしい事はない。
しかし、あの「メカ生体ゾイド」に、いや「ゾイド・バトルストーリー」に感動した「自身の少年時代のあの数年間に対してのみ」、誠実に作られた作品は、けして多くはないのが実情である。
設定こそ「ゾイド・バトルストーリー」準拠であっても、その精神性、空気感まで踏襲した作品、しかも、レプリカモデルではなく、となるとさらに絞り込まれた数になってしまう。
何故か。理由は簡単である。ゾイド・バトルストーリー4+1巻の作例ゾイドには、おそろしくタイトなバランス感覚が必要とされるからだ。
理由は恐らく2点。
●実はバイブル自体がかなり「危ういライン」の上に成り立っているということ
「ゾイド・バトルストーリー」は不思議な本だ。先ず、前提からしてかなり奇妙なのである。
「メカ生体 ゾイド」のバトルストーリーであるにも関わらず、「生体」としてゾイドを扱っていない。生物を改造したもの…とは到底思えない。かといって、完全に否定することはせず、物語る技術で上手く隠蔽している。
劇中、ゾイドは明確に「開発」され、「エンジンをスタート」させ、「操じゅうかん」を握りしめる…と、この4+1冊においてはかなり明確に「兵器の一種」として描写されている。
にも拘わらず、だ。
兵隊や民間人の悲惨な戦死描写は「ストーリー上必要な人物以外には」、一切ない。
そもそも帝国、共和国のトップ同士が兄弟であり、自身のだけでなく、相手の兵士の状況にさえ、常に胸を痛めているような二人である。
↑兄の仇、ヨハン・エリクソン。その亡骸を前に、ダンカン少尉はとめどなく涙を流す。
立山誠浩氏が少年向けストーリーとして4巻までに作りあげた、この「空気感」は、非常に素晴らしいものであると思う。
これは「戦い」ではあるが、敵を機銃でなぎ払うと、兵士の腕や頭が吹き飛び、腸がこぼれ落ちる「戦争」ではないのだ。
そのような凄惨な場面を「少し匂わす」ことすらしない。
そこは、徹底している。※2
これは「メカ生体 ゾイド」において、そのギミック、デザインに並ぶほど、重要な「発明」のひとつだと私は思う。
そして、この余りにも素晴らしい空気感が「ゾイド・バトルストーリー」においては、ある種決定的な「縛りを作った」ともいえる。
ゆえに、ガンダムなどの改造に用いられる「金属製バーニア」や、「メタリック塗装」を施したものを「バト・スト準拠です」と言われても「困る」のだ。
・実機のコーションマークなどを施し、過度に兵器に寄せても
・「生体」に寄せても
・刀などでファンタジックに寄せても
それらの装飾を施した途端に、「この極めてタイトなバランスの上に成り立っている空気感」は消えてしまう。
●堀井メソッドが用いられている、ということ
堀井氏や小北氏といった、この「バト・スト」を手掛けられた方々の作例群。
「バト・スト」を読み込んだ方なら先ず、間違いなくあの4+1冊の写真、構図、作例はすべて頭に入っていると思う。
ゆえに、どうしても「準拠するバランス」が存在する。
膨大な作例郡すべてがアタマに入っているファンなら、パーツの取り付けひとつでも、●●ページの作例の角度、あの個体への取り付け角度…と、瞬時に頭に浮かぶと思う。
↑その意味においては、すべての写真が「バト・ストらしさ」の参考資料ともいえるだろう。
当然のことだがゾイド本体は、「バト・スト」の作例用機体のバランスが明確に「ある」。
カラーリングに関しても同じことが言える。1巻表紙のサーベルタイガーの白銀、ウルトラの背中にとりついたハンマーロックのクリーム色…
バトストの1ページ目から最後のページまでのすべてが、80年代末期の、堀井氏をはじめとした素晴らしいスタッフの「色合い」に満ち満ちているのだ。
これらを仮にあのデスザウラーを創造した堀井氏に敬意を表して「堀井メソッド」と仮称する。
●リュカイナ氏の改造デスザウラー
そのうえで断言するが、やはりこのリュカイナ氏の「デスザウラー高機動型 トビー・ダンカン少尉機」は、「バト・スト」改造ゾイド史上最高峰に位置する作品である。
↑第8回ZAODにおける、最新状態のデスザウラー トビー・ダンカン機 ※3
おそらくリュカイナ氏は、自身のオリジナル部分に、その「堀井メソッド」を構造的に落とし込むという離れ業をやってのけたのだ。
ゆえに
・バージョン1.0の、あの脚のバランスまでもが「懐かしい」ものとして「映る」※4
・完全に違うアウトラインなのに、「バトスト2巻のハイライトシーンが浮かぶ」
・パイプと本体の間の空気感までもが「あの個体になる」
足し算どころか、掛け算であるほどに大幅に形状変更されたそのすべての箇所を「かつて視たことがある」という感動は、それが表層的段階でとどまっていないからである。
↑10年前の1.0 この脚に違和感が全くないことに、驚きを禁じ得ない。凄まじいバランス感覚とテンションである。あえての配色にも注目。
万回読み込み、それらをすべて愛し、血肉と化すこと。
それにより、その法則は、自身の「指針」として構築される筈であり、リュカイナ氏はおそらく、それをおこなった。
リュカイナ氏は、この作品で、私たちのバイブルである「バト・スト作例ゾイド」の「解像度を上げた再現」というあらたな改造ゾイドの方向性を指し示した。
「再現」
その一言に間違いはない。しかしそれを実行したのは、その愚直なまでの「誠実さ」である。
20年目に、あの邂逅をもたらしてくださったリュカイナ氏に、スフィウスLAB堀井氏をはじめとするスタッフの皆さまに、あの美しい物語に誘ってくださった立山誠浩氏に、そしてゾイドという素晴らしいシリーズに、10年後の今、改めて御礼を申し上げたい。
※1 現在、この個体は、1.25にバージョンアップされている。
この写真は特に、ゾイドバトルストーリー2巻 55頁のデスザウラーを感じ取ることができる。
※2 ある意味において最終章である4巻の最後、共和国軍は、傷ついた敵国の兵士に向けて義手、義足をプレゼントする。この描写を入れることで上手く回避したとも言える。この「大空を舞う祈り」の章からは、凄惨な戦争の風景は微塵も感じられない。
※3「堀井氏なら、このような箇所は、このようなパーツで覆う」など、バトストを誠実に読み込むことで得られる「カンカク」部分の改変もまた、非常に心地よい。
脚部をカバーで覆っているのに、作品の決定的なラインは崩れず、綺麗につながっている。
バトスト3巻に見られる煽り画像のデスザウラーすら彷彿とさせる。
※4 1.0におけるむき出しの「脚」が故に、デスザウラーの明るい「赤」を用いず、少し明度を落している。このような調色バランス感覚もまた、「堀井メソッド」故の「改変」と言えるわけだ。
このように、足し算による追加が行われたポイントポイントがすべて的確に「俺たちのバトスト」に基づく改変となっている。